チーズツキミとhappiness

今、僕の目の前には(チーズツキミセット)という文字列が躍っている。チーズツキミは秋の季語であり、僕の気持ちを上げたり下げたりするやっかいな単語である。基本的に僕は寒いのが嫌いだ。秋は寒い。ここから3つ連続で嫌いな季節が続く。死のシークエンスの始まりを告げる言葉はいくつかあるが、チーズツキミはその一つである。

 

しかし問題なのは、このチーズツキミとかいうやつが美味いということだ。嫌いな季節の到来を告げるこの忌々しいブツは、あろうことか美味しいのである。僕は明らかに秋の空気感を帯びてきてるくせに「いや?まだ夏ですが?」みたいな感じでやってくる夜にムカついていたが、同時にチーズツキミの発売を心待ちに...ほんの少しだけ楽しみにしていた。この時期、仕事終わりにマックの世話になる頃には辺りは暗くなっていて、残業しても遊んでも全然暗くならない楽しかった夏を思い出して非常にセンチな感じになってしまう。その「日没はえーよふざけんな」的な感想とともにあるのは、いつもチーズツキミなのである。負の感情・感覚とリンクしている最悪の食物にもかかわらず、こいつはなぜかクソ美味いので、僕は全てをかなぐり捨ててこいつにかぶりつく。チーズツキミの持つエネルギーはすごいな。外気温に対して寒いと感じることが増えるたび僕の気持ちは落ちていくが、それを補って余りあるくらいの昂りをもたらすチーズツキミ。文字列を見た瞬間は「もう秋か...最悪だ」というようにBADが入ってしまうが、口に入れると数分前の自分のことなど完全に忘れ去って、美味いという知性のかけらもない言葉に支配される。そしてその瞬間は、とても幸せなのだ。happiness。

 

6〜7年ほど前の話。友人と共にラーメン二郎横浜関内店に並んでいたら、食べ終えて店内から出てきた東南アジア系の男性2人が、出口で満面の笑みを浮かべてお腹をポンポン叩きながら開口一番「happiness」と発する場面に出くわしたことがある。男性2人から知性が消え失せた瞬間である。人間は本当に美味いものの前では食レポ的語彙など一切発することができない。彼らは本能のままに、関内二郎を貪り食ったのだ。僕と同じように。

この邂逅以降、僕と友人たちの間で「happiness」が流行り散らかした。僕たちのささやかな幸せは全てhappinessという単語で表された。そうやってゲラゲラ笑い合えるのもまたhappinessであった。

 

 

 

さて、僕はチーズツキミセットを食べ終えた。幸せは長くは続かないもので、この後外へ出るとおそらく気持ちが降下を開始する。気持ちというやつに着陸用のタイヤは付いていない。不時着しか有り得ない構造になっている。しかしチーズツキミが高度を稼いでくれたおかげで、さすがに眠るまでの間に不時着することは無さそう。ささやかな幸せは高度を維持するのに必要だ。僕は、チーズツキミを愛しています。